音楽と人生と青春前編
バンドのライブビデオを全部DVDにしようと思って最近めっちゃ編集作業をしてます。
いろいろな事を思い出します。
今だから全部話せる話をしようと思います。
ギターを始めたのは中3の頃でした。
ナリキヨがやってたバンドが学祭でかっこよかったからです。
UNICORNのコピーから始めました。
阿南、ナリキヨも一緒です。
楽器やり始めて3ヶ月ぐらい、卒業ライブってことで初ライブをやりました。
確かfoolishって名前のバンドでした。
確かボーカルとギターをやりました。
で、アメリカに行きました。
理由は、中3の頃ハワイ旅行に行って、日本と全く違った生活にすげー衝撃を受けて、どうせ日本にいてもそのまま高校に行って大学に行って就職して、そんな分かりきった人生を歩むより、自分の無限の可能性を信じてみたいって思ったからです。
で、アメリカのハイスクールが始まるのが9月だったんで、8月に2回目のライブやってアメリカに行きました。
やっぱり最初は全く何もかもが分からない最低の暮らしでした。
まず全然言葉わかんねーし、校内放送でみんな体育館に行ってるのに俺だけただ教室に座ってました。
でもそんな暮らしは覚悟の上でした。
だって自分が選んだ道だから。
今嫌な事とかあったらその時の事を思い出します。
15歳ぐらいの俺が孤独の中頑張ってたんだ、今の俺がそん時の俺に負けてどうする!ってね!
そんでそのうちペルー人の双子と仲良くなって、そしてどんどんみんなと仲良くなって、そんで日本人の彼女と付き合って、その子の家の窓から逃げたりしました(笑)。
そしてバンドのメンバーとは常に手紙のやり取りしてました。
大きな夢を描き始めていました。
「このメンバーでメジャーに行く!」
一年後、夏休みで日本に帰ってきて、サクっとライブやってアメリカにまた戻りました。
その後、卒業を間近に控え親戚のおばちゃん(アメリカ人と結婚してる人)とバトって日本に帰りました。
はっきり言ってそのおばちゃんの言ってることは今思ってもめちゃくちゃでした。
それは人としてです。
ただ人としてめちゃくちゃな事言ってるかもしんないけど、このおばちゃんが俺に愛情をくれてた、それだけは確かな気がします。
もう亡くなってるから二度と謝る事はできませんけど。
あと、日本に帰りたかったのかもしれません。
早く仲間とバンドがやりたい!その気持ちが抑えきれなかった部分もあったはずです。
で、帰国後は高校に帰国子女で3年生で入って、同時にバンド活動を再開しました。
で、俺のバンド活動の歴史の大半を一番近くで見守ってくれる事となる人と出会いました。
高校卒業後、付き合い始めました。
その後、俺がずっと一緒にバンドをやる予定だった阿南が単身で東京に行きました。
理由は一見曖昧でした。
でもこの地元を去りたがっていた、俺には奴が言葉にしなくてもそれがなんなのかわかっていました。
大学に入って、阿南なしでバンド活動を続けました。
そのときのドラムだった轟君はBuzz72というバンドで現在エイベックスで活動しています。
ボーカルは中3の頃から一緒にやってた石井ちゃん。
で、メンバーの就職等いろいろあって、石井ちゃんと2人でデモテープ作ってオーディションに送ったらいくつかのオーディションに受かって、東京にいくべきかを考え始めました。
でも石井ちゃんは就職が決まっていました。
苦渋の決断だったと思います。
彼は福岡に残る事を決めました。
俺だけ東京に行く事にしました。
遠距離恋愛になりました。
21歳の秋でした。
東京に着くとすぐショックをうけました。
事務所、レコード会社など数社から話をもらっていたのに、どれも具体的ではなく曖昧な話にされていたからです。
でも俺は1人で落ち込むことはありませんでした。
それは、また阿南がいるからです。
俺は1人じゃなかったんです。
こいつとなら全ての喜怒哀楽を共にできるって再認識しました。
そしてSPINY BEATを結成しました。
SPINYの意味はとがっている、荒々しい、とかの意味で、BEATはもちろんBEATって意味と相手をぶちのめすって意味です。
ドラムにはアメリカから帰って来たときにバンド活動をサポートしてくれてたバレーダンサーのJを迎えました。
すぐまた別の事務所から話もらって、初めて他人のバックアップを受けてバンド活動できるようになりました。
ホント夢みたいでした。
事務所に行って、俺らの音楽がでっかいスピーカーから流れて、プロデューサーと社長から「君達の音楽はアホすぎる!そこがいい!活動を協力していきたい」って言われて、阿南と2人で最高の気分になれました。
どんなにちっちゃな事でもたくさん感動してたくさん笑って、嫌な事はすぐ忘れて。
そして初のライブを迎えました。
下北沢GARAGEです。
最低のライブです。
来てくれた事務所の人、そしてビクターの人にあわせる顔がありませんでした。
絶望的なライブでした。
でもまだ事務所は俺らを長い目で見守ってくれると言ってくれました。
この時までは。
その後下北沢屋根裏、SHELTER、CLUB251でのライブ等を重ね確実にパワーアップしていきました。
バンドも、音楽も、そしてなにより自分自身も。
そして23歳になりました。
多分23歳の誕生日だったのかな…?
遠距離恋愛中の彼女にギター(GIBSONのレスポール・スタンダード)を買ってもらいました。
信じられない話です。
俺の音楽を信じて、そして俺を信じてくれてたんだなって思います。
そのギターはその日から今までずっと使ってます。
続編へ!